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【コメント】
わたくし松村真司は、医師という仕事を「病気を治療するだけでなく、人々の健康を、そして健康的な暮らしや生き方をサポートする仕事。」そんなふうにとらえています。 日頃、私がどんな思いで患者さんと向き合っているかを知っていただきたいと思いました。
【過去のコラムは、こちら】
●第1回:「松村医院の医療方針
     (プライマリ・ケア)について」

●第2回:「往診・訪問診療について」
●第3回:「予防接種について」
●第4回:「研修について」
●第5回:「コミュニケーションについて」
●第6回:「クオリティ・オブ・ライフ」
●第7回:「松村医院の建物改築について」
●第8回:「松村医院の建物改築について
      〜第2弾 新生・松村医院へ」

●第9回:「(松村医院小史)第一部
      松村医院誕生から現在まで」

第10回《松村医院小史》第二部 松村医院誕生から現在まで



 前回に引き続き、松村医院が誕生するまでを先代の前医院長松村幸司に聞きました。親子対談ということで、私の知らないまたは記憶にない話も飛び出しました。

松村:前回は、松村医院が誕生する以前の大東学園病院について佐藤光子さんにお伺いしたのですが、“大東学園病院”はどんな感じでした?患者さんにとって便利で、しかも心の安らぎとなっていたというお話でしたが。

先代:大東学園病院は、いまでいうところのバリアフリーで段差もなく、聖路加国際病院からも派遣された医師たちが来る、それこそ当時としては診療レベルの高い最先端の病院でした。病院の理想形のような存在だったかもしれません。でも志の高かった守屋 東(もりやあずま)さんから病院の運営主体が移った昭和40年頃から病院の経営がおかしくなったのです。当時、私はアメリカにいたのですが「戻ってきてくれ」と言われて、その上、病院での診療を継続する必要性もあって大東学園病院の“雇われ院長”になったわけです。病院自体はうまくいっていたのですが、昭和44年の4月には後継の病院経営者が病院以外で多額の負債をかかえて病院が閉鎖されることになりました。でも、病院が閉鎖されたと言っても通っている、あるいは入院している患者さんたちは困るわけです。
丁度、その頃大東学園病院から近くの線路際に建て売り住宅がつくられていたもんですから、すぐそこに引っ越して、昭和44年5月にとりあえず松村医院を開業しました。建て売りだったため、診察室が和室だったんですが、「先生がやってくれるんだったら、(病院のような大きな構えでなくても)普通の家でもいいから」と言って患者さんたちが来てくれたんですよ。ダイニングキッチンが診察室と薬局、和室が待合室、その真ん中に玄関があるという感じでした。

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松村医院開設時の挨拶状(昭和44年4月30日発行)






松村:開業したての松村医院は、どんな感じでしたか?

先代:最初は残された患者さんのお宅に往診に行ったりしていました。そのうちに、「あそこに医院があって、そこは夜でも見てくれるそうだ」と訪ねてくれる患者さんがいらっしゃるようになりました。でも、急ごしらえの医院でしたので、どこにも松村医院の看板がなくて、迷う人も多かったわけです。で患者さんが「看板がなくっちゃ、困るから」ということで電光掲示板みたいな大きな看板を立ててくれたんです。その当時は、田園都市線もない時でしたから、長津田方面から来る人はみんな大井町線に流れていました。混雑する大井町線の電車の窓からその看板が見えていたそうです。遠くから電車でいらした患者さんは、すぐに分かったそうです。





松村:開業当初の医院は経営的にどうでした?

先代:結構患者さんは来てくれていたのですが、それでも生活するには厳しくて、湘南病院という、神奈川県の追浜にある病院にも週3回勤務していました。その頃の上野毛には眼科も皮膚科も整形外科もなかったので、いまで言うところの家庭医のように総合的に診ていました。夜も診療をやってましたし、幅広く診ていたので患者さんは増えていきました。第3京浜や東名高速道路から近いので、昭和49年頃からは、高速道路を利用して遠くからも患者さんが来るようになりました。御殿場方面や横浜・川崎から車で来る患者さんもいたぐらいです。

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開業当初のご利用のしおり


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